テレビ番組でアンネフランクのアンネの日記がやっていました。
第二次世界大戦中に迫害を受けたユダヤ人であったアンネフランクが強制収容されるまでの屋根裏部屋での生活を端的にドラマ化した番組でした。
内容に関しては飛ばしますが、ドラマを通じて「正義感」という言葉が頭によぎりました。これはアンネフランクの正義といういみではありません。おのおのにある正義感という意味です。
(多少うがった見方もありますが)ナチスドイツも経済で困窮した自国の利益確保のために侵略的政策をとることで圧倒的な票を獲得したヒトラーが台頭したのです。つまり当時のドイツ国民にしてみれば侵略的政策が正義だったのです。
おそらくドイツ国民も理性では侵略がいけないことだくらいはわかっていたかもしれませんが、経済恐慌による生活の悪化を打開する方法がほかにはないし、目の前の利益が必要だったために正義という大義が脳内麻薬となり、いつの間にかマジョリティーになってなったのです。
タイミングが悪いかもしれませんが現在のイスラム国も、彼らなりの正義のもとに残虐なテロ行為を追行していますし戦時中の日本だって戦争で死ぬことがかっこいい(戦争で死を恐れることはカッコ悪い)という常識のために何人も死んでいったのです。
正義という名のもとであれば、たとえ人殺しであっても正当化されます。日本の死刑制度だって同様です。法律という正義のもとで犯罪人を殺すのです。
僕はむかしから正義とか常識とかいう言葉が嫌いで、つまり正義とか常識があることによってなぜ正しいのかとかなぜかっこわるいのかとかいうもっとも重要な部分をとばすことができるからです。
正義や常識が仮に間違ったほうだったとしても、最終的に自分自身の中で良しあしを決めることができれば何の問題もないはずです。ところが現代社会はいい大人になる間に常識や正義を植え付けられるので自分で考える、決断することができない人が多いのです。
たとえ他人からどう思われようとも、非難される人生を歩もうとも、本人が正しいと思って生きているひとのほうが僕にとってはカッコいい人間ですし、聞こえのいい人生だとしても本人にゼロから考えることができない人間は頭悪いですね。