なぜか高校の時の先生の「試合で負けても勝負で負けるな」と言われた言葉をよく思い出します。
”試合”とか”勝負”とかは、具体的なスポーツとか試験のこととかではなくて、もっと抽象的な生活や人生での局面のことです。
試合→具体的な試験とかの結果が白黒するもの
勝負→物事に対する取り組み方やその内容
高校時代、僕は勉強ダメ、生活態度ダメ、つるんでいる仲間はみんなアウトローと、いいところがありませんでした。
「お前は試合では勝てないから、せめて自分との勝負には負けるな」と言いたかったのかもしれません。
それくらいダメダメだったのです。
そんな僕でも見捨てずにこのような言葉をかけてくれた先生がいたことは思い返すと財産と言えるかもしれません。
”勝負”と”試合”
なぜこのような言葉をかけられていたのかというと、自分の家庭環境や生い立ちが決して褒められるものではなく、それに絶望していることを見透かしている先生がいたのです。
残酷ですがこれらの基礎的環境は学力とかに与える影響は大きく、それにどっぷりつかっている青春でした。
その先生が僕の家庭環境までを見抜いているとは思えませんが、なんとなく感じるものがあったのかもしれません。
高校時代から感受性は豊かだねと言われることが多かったので、きっと理解できるだろうと投げかけてくれたのでしょう。
試合では、例えば10点先取のスポーツがあれば機械的に10点を取ったほうが勝ちです。
しかし、では1点1点でどのように取り組むか、どのように対峙するかで”勝負”は決します。
今考えると、逆に残酷な言い回しかもしれませんが、僕には金言でした。
それを説いたその先生は、とても人間としてできていたと今では思います。
競争は否定しない
やや矛盾しますが、現実社会では結果が全てです。
そのため同じルールであれば勝ったほうが負けたほうよりもメリットを多く受けられるべきというのはその通りだと思います。
試験に合格すればその後の可能性が広がる、いい会社に受かれば安定した生活の可能性が高まる、これらは日本人であれば受け入れなければやっていけないルールでしょう。
このルールは、人間関係ではさらに残酷です。
一番わかりやすいのが男女でしょう。
あなたの中で一番の異性がいたとします。
その異性のなかの一番があなたではないこともあるかもしれません。
他の人を蹴散らしてでもその異性にとっての一番にならないといけないのです。
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