皆様へお知らせ
私、前場亮は、10月いっぱいで7年間経営したコンソールを離れることになりました。コンソールは私が経営していましたが、どのような形になるかはわかりませんが、今のところ店舗そのものは存続しています。
これによって、私は完全に飲食業界から離れます。未来のことはわかりませんが、今は飲食業界に戻る気はありません。
いきなり考えついたわけではなく、もう2年くらい前から何度か体調を崩し、気力・体力ともに本調子ではなく、限界を感じていました。
気力で体力をカバーできなくなったといえば聞こえはいいのかもしれませんが、体力を気力でカバーできなくなったということは、正直に言えば、飲食業界に飽きてしまったのだと思います。
多くの飲食店経営者は40歳を境に社長業でいくのか現場に立ち続けるのかの選択を迫られることになります。
論点はいつ、だれが決断するのかというものです。
私は現場を離れることは選択できなかったし、かといって最高のパフォーマンスができていない状態でした。
現場を続けられない以上、近い将来、いつかは身を引くべきだと考えていました。
コンソールのお客様、スタッフ、関係者さまには大変な迷惑だったと思いますが、快く送り出してくれたことを心から感謝します。
スタッフとはこれからは友人として付き合っていきたいと思います。
では,この後は何をするのかということになると思いますが、すでに20年以上も飲食業界に身を置いていたため、今は何も決まっていません。
しばらくの間はゆっくりし、そのあとにいろいろ考えたいと思います。
勉強もしたいし、あたらしいアイデアもいくつかは浮かんでいます。
このような心境は人生で何度もあるわけではないと思いますし、今の気持ちを大事にしたいので、飲食店人生を振り返りたいと思います。
飲食業界引退
思い出話 18歳~
楽しい?テレビにも出演させていただきました(笑)
飲食業界は、思い返すと15歳でファミリーレストランの皿洗いのアルバイトをしたことに始まります。
そのファミリーレストランは1週間でバックれ、その後に焼き肉店、別のファミリーレストランでウエイターのアルバイトをしました。
17歳の時に、働いていたファミリーレストランで「お水をください」といわれたお客様にお水をそそぐときに、
「お客様、何杯でもそそぎますよ~」
と半分ふざけて言ったら思いのほかウケてしまい、そのお客様が帰り際に「お水美味しかったよ~」とふざけて返してくれました。
その時に「接客は面白い」とはっきり意識したのを覚えています。
高校を卒業し、代官山にあるパッションというフレンチレストランに就職します。
この段階では料理人になりたかったのですが、まんまとはめられて「料理人をやるんだったら順番待ちで接客をやる」ルールに従い、接客を1年半ほどやりました。
このお店は今でもありますが、当時は大変上質な顧客を持っていました。
芸能人からスポーツ選手、政治家、財界人など、本当に”超”のつく一流の方とじかに接することができました。
ここで私は一流の接客を学ぶことになります。
一流の接客は、相手が何を言っているのではなくて何を考えているのか、次は何を考えるのかを察知して先回りをします。
そのためお客様と目があったらその段階でこちらがドンピシャの解決策を提示します。
化粧室に行きたければ案内し、会計をしたければ会計を渡す。
簡単なようですが最初のころはよく勘違いしました。
化粧室に行きたくてきょろきょろしているお客様に会計を渡して殴られたこともありました。
そのお店は2年半ほど働き、フランスにどうしてもわたりたかった私はそのお店を辞めてお茶の水にあるアテネフランセ(フランス語学校)に通いながらフィオーレというイタリアンレストランでアルバイトをすることになったのです。
ここでもよく働きました。
最終的に時給900円でよくもこき使ってくれたものです。ですが、給料以上に接客の楽しさに目覚めさせてくれたお店でもあります。
大変感謝しています。
いまだに、このイタリアンレストランでアルバイトをしていたころが私の接客のピークだったと思います。
ピークとはいえ、まだ21歳でした。
このお店で私はただのウエイターだったのですが、お客様の心をつかむ術、目立つ術に開眼しました。
今考えてもこのころの接客はものすごい求心力があったとおもいます。
20代 カナダ~フランス
フランス行きはいつの間にかカナダ行きに変更し、22歳のころに私はカナダに渡ります。
カナダではイル・ドーモというパスタハウスでウエイターをしました。
このお店は日本でいう欧風料理のようなお店で、パスタは自家製麺で大変おいしかったのですが、従業員がホモばかりで大変苦労しました。私はホモに人気があったのです。
(酷い言い方をすると思う人もいるかもしれませんが、僕は被害者なのでこれでも明るく言っているつもりです)
ただ、苦労しましたが英語は上達し、言葉が通じないながらも自力で差別と闘い、信頼をつかみました。
カナダから帰国し、私はセンチュリーハイアット(現ハイアットリージェンシー)にあるイタリアンレストラン・マキャベリで副支配人を務めることになります。
いきなり無茶なポストに就かせるなあと思いましたが、ホテルの中にあるレストランで働くことで様々な人と出会いました。
ここで私はソムリエという努力する対象を見つけます。
それまではただやみくもに接客していたのですが、ソムリエという対象を見つけることで、ソムリエでナンバーワンになるという野心が芽生えたのです。
努力のかいがあって26歳の時に小さなソムリエコンクールで全国2位となります。
この瞬間は私にとって「見る側」から「みられる側」になったことをはっきり意識する瞬間でした。
実は、この段階ですでにかなり目立つ存在だったと思います。
勤務していたお店のことで意見を求められることも多かったのですが、それでも26歳でコンクールで全国2位というのはインパクトも大きかったのだと思います。
ただ、ここで私はサラリーマンというものたいして本当に幻滅することになります。
うまくいけばいくほど足を引っ張りあい、目立てば干されるし、面前ではにこにこしていても裏では何を言っているのかわからない環境で、ホテルや大会社の組織というものが本当に嫌になってしまったのです。
コンクールでの受賞を機に私は念願だったフランスへ渡ることになります。
ところが結果から言うとカナダでの体験の半分程度の収穫しかなかったフランス滞在でした。
パリでは、いきなりある日本人シェフのお店でソムリエをやりますが、ここの接客スタッフの質がひどく悪かったのです。
英語を話すスタッフがいなかったので、初日から私は通訳代わりに使われましたし、ワインの知識があるスタッフもいなかったのでワインリストは間違いだらけで少しでも修正を指摘するとものすごい雑言を吐かれて帰り際に暴力を振るわれることもしょっちゅうでした。
有名人なので言いづらいですがシェフも裏と表の差が激しく、細かいところで矛盾だらけでお調子者だったので嫌いでした。
このお店は1か月もしないでやめることにしました。
今考えると、この段階でソムリエとして知識負けするということが完全になくなっていたので他のソムリエもどう接していいかわからなかったのかもしれません。
生意気さもてつだって、上司はやりにくかったと思います。そこに関しては反省しています。
せっかくフランスに来て1年以上いないとかっこがつかないので残りの期間は日本人向けの通訳兼ガイドのようなことをやってしのぎ、28歳で帰国しました。
28歳~ イタリアン開業→ソムリエコンテスト優勝
28歳で帰国し、縁があって西麻布に高級イタリアンをオープンすることになりました。ここは共同経営とはいえ、経営者兼支配人です。
まず、ここでは新規オープンすることのむずかしさを経験しました。ただお店を開けていてもお客様は誰も来てくれないのです。
何とかしなくてはならないと思った私は、雑誌社を訪問して頭を下げることを繰り返しました。
当たり前ですが何の実績もない私たちを取り上げてくれる雑誌はありませんでしたが、一つだけ
「それでは、私の雑誌では取り上げるのは難しいけど、覆面でよければ取材にいかせます」
と言ってくれた人がいました。それがマガジンハウスの「ハナコ」だったのです。
もちろん覆面取材がハナコだとは知らされていなかったのですが、ランチタイムに一番高いセットを注文する20代後半の女性に私は注目しました。
一人で来店してテーブルの下でメモを取っているのです。「この人だ!」そう思いましたがいつも通りの接客をしました。
私の思いは的中し、感動してくれたハナコの覆面記者は誌面で華々しく取り上げてくれました。
その後はハナコに掲載されているという事実から芋づる式に取材がつづき、あっという間にお店は連日満席の人気店となりました。
そこからはまさに快進撃でした。上質なお客様にも恵まれました。
政治・経済・芸能・スポーツ界などのあらゆる業界の方も多数お見えになられました。
有名野球選手が日本一になり、その夜に「マエバちゃ~ん優勝したよ~」と来店されたこともありました。
そしてそのお店と私にとって最高の出来事がありました。
私が”キュヴェルイーズポメリーソムリエコンテスト”という当時日本で最もレベルの高かったソムリエコンクールで優勝するのです。
その前年に2位を取っていたので、業界内では「なんかへんなのがでてきたな」程度には思われていたと思います。
決勝戦にあがるソムリエはすべて有名店か有名ホテルのトップソムリエだったからです。
ただ、優勝したことで、それ以上に私がそのお店でできることはなくなってしまったのかもしれません。
その後に同じお店の後輩二人が優勝しましたが、私の興味はすでにソムリエには向いていませんでした。
優勝したことで取材もさらに増え、テレビにもちょくちょく出させていただくようになりました。
しかし、そこからは、そのお店と私は決していい付き合いができていなかったと思います。
売れっ子だという思い上がりもありました。
プライベートの人間関係は芸能人やスポーツ選手と夜の西麻布に遊びに行くこともしょっちゅうでした。
しかし詳しくは避けますがこのころの思い出はいいことが公私ともども全くなく、正直、過去最悪だったと思います。
おそらく周りからすれば一番いい時期だと思われている時が、自身からすれば最悪だったのです。
しかしすべては、私の器量のなさが生んだことです。
そして八年勤めたのちにそのお店を離れることになりました。
どん底の中の光
経営していたイタリアンを離れるすこしまえに、私は縁があって六本木に”ダイニングバーコンソール”をオープンします。
オープンした時は別の店長を雇って運営していましたが、いろいろなタイミング重なり、私がコンソールを運営することになったのです。
コンソールは当時ひどい赤字店でしたが、一店舗を黒字化させることはたいして苦労しないでできます。翌月からは黒字でした。
スタッフにも恵まれ、ケータリング事業にも進出し、インターネット集客にも成功しました。
空中店舗でも路面店と変わらない集客でした。
ただ、私自身のモチベーションは、やはりソムリエコンクールの優勝の時までには遠く戻りませんでした。
今から二年ほど前から自分の体力に疑問を感じるようになりました。要するに年をとって気力がついていかなくなったのです。
老いたなら老いたなりの携わり方もあったかも知れませんが、それは選択肢には入りませんでした。
その意味では、私は本気で飲食業界を愛していなかったのかもしれません。
20代のころに熱く語ったサービス理論やワインの知識も、今となっては遠くの昔のように思えます。
20代の頃の私の接客を知っている人から見れば、今の私はまるで別人のように映ると思います。
正直、今の僕は人生のどん底ですが、その中でもコンソールのスタッフは本当に上質で、僕が支えられてここまでやってこれました。
コンソールのスタッフこそが僕の光でした。ほんとうにありがとう。でも、これが僕の限界です。
ただ、ネガティブなことばかりをいってはいられません。
私はまだ41歳で、これからもしっかり生きていかなければなりません。
すこし弱ったとはいえ、まだまだ元気です。これからもとんがって生きていきたいと思います。
ここまで読んでくださって、本当にありがとうございます。
このサイトで私の情報は発信していきたいと思います。
今後も前場亮の活動を、見捨てずに、たまに思い出して下されば幸いです。
重ねて申し上げます。多くの方々に無理を言って私のわがままを聞いてくださって、本当にありがとうございました。
飲食業界には、一つの悔いもありません。
いままで飲食業界の私を応援してくださったお客様、夢を語りともに切磋琢磨した同僚、導いてくださった先輩方、こんな私についてきてくれた後輩、残念ながら決別したひとたち。
すべての関係者さまに心から感謝申し上げます。
本当にありがとうございました。
2014年 10月11日
前場亮