”自由とは権利ではなく能力だ”との仮説を検証する

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僕はずっと自由とは権利なんだと思ってきましたし、実際に世論の多くは自由とは権利なんだと当然のように語られていると思います。

憲法13条に派生する自由権(幸福追求権)は現代社会において最も大事なテーゼであって決して否定するものではありません。

しかし、最近「本当に自由とは権利なのか?」と考えることが増えました。なぜでしょうか?

僕は自由というものに対して正直にいようと心掛けています。できるだけ世間の評価とかに左右されずに物事を判断しようと常に心がけていますし、最終的な決定は必ず自分がカードを握れるようにしています。

このようにかくと自由を享受しているな、自由を満喫しているなと思うと思いますが、ここで一つの疑問が生まれます。頑張らなきゃそもそも自由なんてないじゃないかと。

 

多くの人は、自由について以下のようにとらえていると思います。

・憲法13条の幸福追求権に派生する自由

・社会一般的に”日本は自由社会なんだ”という自由

・すべての人は平等なんだ=自由なんだという自由

・親から与えられた何不自由のない自由

 

これらが当てはまる人もいればそうでない人もいると思いますし、中には「うちの親はとんでもなく厳しくて自由なんてなかった」という人もいると思います。ただ、一般論で言えば自由は自然とそこにあるものでそれを行使するのは権利なんだとの認識がマジョリティ(というか教科書的)でしょう。

 

ここからは僕の個人的な意見なのですが、じゃあ自由は誰にでもあるかといえばもちろんそうではないし、甘ったるい自由論は実体のない絵空事にしか聞こえません。

自由は行使することができなければ意味がありません。では行使するのは自由でしょうか?現実的には資本も必要だし時間も必要だし、それ以外にも体力、気力も必要でしょう。ソーシャリティから言えば外圧も考慮しなければ自由はありえません。

そういう見方からすれば自由は権利ではなくて能力なんだと僕は考えるようになったのです。

 

自由とは権利ではなく、能力か?

能力なのであれば最初はゼロかもしれないし、人によっては最初から恵まれた人もいるかもしれませんん。
しかし共通して言えることは自助努力がなければ保つことはできませんし、そこには歴然とした競争があるということです。

 

ある人がラーメン店を開業したいという願望を持ったとします。本当に自由なのであればいつでもどこでも誰にでも開業する自由があるはずですが、現実はこうはいきません。

開業するためにはお金も必要だしお客を呼ぶ腕も必要だし、ある程度のマーケティングも必要です。そしてこれらはすべて能力なのです。

 

自由を当然の権利として議論しようとすると的外れになるときがあります。しかし、すくなくとも僕はいまの自由な生活は自分の努力があってこそ成り立つものだということは否定しないし、努力ができない(あるいは足りない)のであれば自由には制限がかかると思っています。

 

ひとによって自由の尺度や規模は違えど、子供から大人になるというパラダイムシフトはここに論点があるような気がしてなりません。自由を権利だと声高に叫ぶ人は、僕には幼稚に映るのです。


当ブログ運営 前場亮のご紹介


1973年7月11日生まれ
行政書士前場亮事務所と株式会社ワインブックスの代表をしています。


2014年まで西麻布で飲食店を経営。
ワインも得意で第3回キュヴェ ルイーズ ポメリーソムリエコンテストで全国優勝しました。

行政書士の専門分野は風営法・航空法・道路法です。
これらのすべての分野で影響力のあるサイトを運営しています。詳しくは

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モノを所有すること、保身、名誉が嫌いです。

行政書士 前場亮事務所
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